福島県高校生、震災体験を語る

(フクシマの影響)

 現在15歳、16歳の高校生は、2011年3月の震災、原発事故当時、7歳か8歳でした。

 もう少し若かったら、当時こどもとして経験したことははっきり覚えていないと思います。この年代の福島県高校生は、震災の生き証人として当時のことを頭ではっきり覚えている最も若い世代だと見られます。

 すでにこのサイトで報告したように、2019年8月福島県高校生がベルリンで、東日本震災後の自身の体験について語りました。

 以下では、その体験の報告テキスト文を掲載しておきます。
(fm)

 2019年8月8日に行われた高校生交流会のビデオも参照(英語でスピーチ)。

石井聖真
 こんにちは。僕の名前は聖真です。
 僕は新しい発電方法を開発することを宣言します。それはとてもきれいで安全です。なぜそう思うのか、そのわけは、2011年3月11日にあります。
 教室にいた時、僕は大きな地震を経験しました。その時は7歳で何が起こったのか分からず、ただ机の脚を強く握っていました。校庭から校舎を見ると、鉄の柱が屋根から露出しているのが見え、恐ろしかったです。1時間ほど外で父が迎えにくるのを待っていました。とても寒かったです。雪が降っていました。
 家への帰り道の途中で破壊されたものを見ました。家が壊れたり郡山市役所の屋上が落ちていたり、僕の母が務めていた病院 が眼前に崩れていました。全てがひどい状態でした。
 すぐに買い物をした。たくさんのものを買った。例えばお菓子や、飲み物、缶詰め食品です。インスタント麺は水が使えないので買わなかったです。
 数日後、原子力発電所の事故が起こり、外出を控えなければなりませんでした。約1年後に、政府の政策で、放射線で汚染された表土は数センチ削り取られ、汚染されていない土が他県から運ばれてきました。
 しかし僕の学校は、一時的な建物が校庭に建設されるほど損傷していました。体育の授業では、僕たちの校庭は使うことがで きず、ほかの学校の校庭へバスで移動しなくてはなりませんでした。時々、学校の廊下を 走りました。
 僕たちの学校だけではなく、僕の市にある全ての家は除染され、表土は入れ替え、僕の家の周りの放射線量は劇的に減少しました。現在、放射線量は最初に測定したときよりも低くなりました。未だに汚染された土は僕の家の庭に埋められているので、両親に近づかないように言われています。
 外に出る時はいつもマスクをつけ、放射線量を測るための機械を身に付けるように言われました。面倒でした。週末には僕はよく、友達と鬼ごっこをして遊んでいて、それを話すと、母に叱られました「何してたの!もっと放射線のことを考えなさい」
 しかし僕にはなぜ母が叱ったのかわかりませんでした。なぜなら、僕らには放射線が見えず、僕は放射線の影響を知らなかったのです。
 地元の野菜がほとんど使えないため、給食を作る人が苦労したと聞きました。また、多くの農家が福島産だという風評被害から作物を捨てなくてはならなかったと聞きました。僕には、おいしいお米をくれる農家の親戚がいましたが、彼の畑から少量の放射線が検出されました。そして、両親がいいました。「これらのお米は食べられないね。」そしてそれらを捨てました。わたしには理解できませんでした。そんなことをするのを見てとてもショックでした。
 もう一つ、ショッキングな経験をしました。小学生の頃、僕の体が被曝していないか何度か検査されました。原子力発電所の事故から数年後、数人の子供達が甲状腺癌と診断され、事故とはなんの関係もない。と言っているニュースを見ました。子供達の健康上の影響を調べるために、県や政府は18歳以下の福島県民の医療費を全額負担しています。原子力発電所の事故と関係があるかは誰もわかりません。
 発電するために原子力を使うのは危険だと思います。私たちの命に危険が晒す可能性があるものは止めるべきです。ここから、僕はクリーンエネルギーに興味を持ちました。
 このプロジェクトを通して、もっと多くのことを学びたいです。この機会を活かして将来はクリーンエネルギーについての仕事に就きたいと考えています。
 ありがとうございました。

遠藤颯人
 皆さんこんにちは
 私の名前は遠藤颯人です。16歳です。私はとても犬が好きです。
 あなた達は好きですか?これから動物の権利について話したいと思います。
 東日本大地震が起きた時、私は7歳でした。ある日、友達と校庭で遊んでいた時、地面が大きく揺れている事に気づきました。私と友達はとても怯えていました。
 その後、家に帰り、とても安心しました。でも、その時は、自分の事しか考えられませんでした。
 福島第一原子力発電所の事故で多くの人が避難しました。しかし、多くの動物は非難することができませんでした。避難所は動物の受け入れをしなかったからです。
 人々は動物の命より人間の命を優先しました。人間は動物の命も重要視するべきでした。動物にも生きる権利があります。それは人間と一緒です。
 取り残された動物達はとても寂しい思いをしたと思います。飼い主達も自分のペット達と一緒に過ごしたかったと思います。でも、その願いは叶いませんでした。
 動物達は飼い主の帰りを待っていましたが、飼い主達も帰ることができませんでした。そして動物達は、逃げ出したり、餓死してしまいました。逃げ出せても自分たちで生き抜かなければなりませんが、動物達には、その術がありませんでした。
 東日本大地震から8年が経ち、多くの動物たちに新しい飼い主や家が見つかりました。しかし、まだ飼い主が見つかっていない動物たちもいます。保護施設の人たちが飼い主を見つけようとしていますが、簡単ではありません。
 人々はしつけが難しいと思い、引き取れていません。でも、プロのトレーナーの手を借りれば、動物達をより良い家族に出来ると思います。
 被災犬の中に、災害救助犬になった犬がいます。その犬の名前は「じゃがいも」です。 じゃがいもはある女性の家から救助されました。トレーナーはじゃがいもを訓練するつもりはありませんでしたが、じゃがいもは訓練について行きました、
 じゃがいもは匂いを探すのが上手でした。何度も練習を積み重ねましたが、10回も試験に落ちてしまいました。それでもトレーナーとじゃがいもは練習を続けました。そしてじゃがいもは、なんとか合格することができました。
 このように訓練次第で素晴らしい犬に成長することができます。
 私の将来の夢はドッグトレーナーになる事です。日本には、人間の勝手な理由で捨てられる犬が多くいます。私はその犬たちを救いたいと思い、ドッグトレーナーを目指しました。
 私はドイツで動物愛護について学びたいと思います。
 ありがとうございました。

菅野真帆
 こんにちは。真帆です。日本の福島高校の1年生です。16歳です。私は甘いものが大好きです。チョコレートが大好きです。ケーキは1 番大好きです。私はケーキを作るプロです。
「東日本大震災」
 あなたは覚えていますか? 私はあんなに大きい揺れを経験したことがありません。私は幼く、たったの7 歳でした。ロッカーは次々に倒れ、学校のカバンは 音を立てて落ちてきました。
 窓は音を立て続けて粉々に割れました。私達はすぐに机の下に隠れました。私の友達のひとりがあまりの怖さに泣き出してしまいました。私は泣きませんでした。私は泣いてはいけないと思っていました。もし泣いたら私は弱いと思ったからです。しかし、とても怖くて、今にも泣き出しそうでした。建物の安全が確 認できなかったため、公園に避難し、保護者が迎えに来るのを待ちました。電話が繋がらなかったので、仕事に出ていた家族と連絡を取ることが出来ませんでした。私はとても怖かったです。「私のお母さんは生きているの!? お母さんはどこにいるの!?」と思っていました。
 次の日から10日間水が止まりました。流通も全て滞りました。私達は食べ物もガソリンも、生活に必要なあらゆる物さえ買うことが出来ませんでした。
 外に行く時は、長袖、長ズボン、帽子を、肌を隠し露出しないために身につけなければなりませんでした。外には有害な放射線があったからです。夏でさえ、これらを身につけなければなりませんでした。外での活動も1日2時間に制限されました。私は外で遊ぶのが大好きだったので、ショックでした。
 悲しいことに、土も放射線により汚染されてしまいました。私達は、校庭、公園、そして家の庭にもそれらが除染されるまで入ってはいけないと言われました。また、側溝にはたくさんの放射線があるから近づいてはいけないと言われました。2011年、私の小学校の運動会は開かれませんでした。なぜなら放射線から安全ではなかったからです。次の年からは外で開かれましたが、時間は短くなりました。
 私が住んでいる南向台は原子力発電所から60キロメートル離れたところにあります。しかし、南向台は福島市で最も放射線値が高かった場所でした。そのため、クラスメイトの半分が引っ越してしまいました。私の家族は引っ越すことが出来ませんでした。私は、ここに住み続けたら害があるのではないか、と心配していました。私は何度も学校や家族から放射線は有害で、危険だと言われていました。だから、「もし、放射線が原因で死んだらどうしよう」と思っていまし た。
 南向台から他の町に避難した友達の1人が、引っ越した先の人々にバイ菌のように扱われた、と言っていました。彼らは、もし福島の人に近づいたら自分も放射線に汚染されてしまう、と考えたのです。彼女は辛い時間を過ごしました。 残念なことに、福島産の野菜、くだもの、米を食べる機会が減りました。なぜならそれらは放射線で汚染されてしまったからです。加えて、それらが学校給食に使われることも無くなりました。
 今は、除染が進みました。外での活動の制限も無くなりました。福島産の食べ物の放射線の検査も行われ、それらが安全であることが分かっていて、私が10か11歳の頃から学校給食に使われるようになりました。私達は地震が来る前とほとんど同じように福島に住むことができるようになりました。これらは私が経験してきたことのいくつかです。
 私がこの研修に参加した理由は、真実を伝え、私の経験を皆さんと共有したかったからです。私が話したように、福島はだんだん安全になってきています。そして、私は再生可能エネルギーの使い方について考えるべきだと思います。
 私は、まだ将来の夢が決まっていません。このドイツ研修で夢を見つけたいと思います。

久下菫
 16歳の久下菫です。好きなことはバレーボールをすることと、ミュージカルを見ることです。
 私が震災を経験したのは8歳の時です。当時、私は低学年だったので家で宿題をしていました。緊急地震速報がなり、すぐに大きな揺れが襲ってきました。日本はもともと地震が多いのですが、私は速報を聞くのは初めてだったので、すごく怖かったのを覚えています。それからは母が二階まで走ってきて、大きな揺れの中階段を降り、家族みんなで自分たちの命を守るのに必死でした。揺れが収まっても危険がなくなったわけではありません。家じゅうの棚や家具が全てひっくり返りそこら中破片だらけなので靴のまま家に上がり、まだ使えそうなものは外に運び出したりしていました。
 その時の記憶がとてつもない恐怖で埋まっているのは、やはり父の存在がなかったことだと思います。私の父は消防士です。その日ちょうど父は仕事だったので、私たちの無事を確認するたった一回の電話でしか声を聞けませんでした。このまま家族がバラバラになってしまうんじゃないか、お父さんはもう帰ってこないんじゃないか…などと幼心に思っていました。
 残された私たちは近くの体育館へ避難し、他の避難者の人たちと2、3日避難生活をしました。まだ雪が降っている3月の寒い日に、固い床で家族とくっついて寝たあの3 日間は一生忘れられないと思います。お店などは全て閉まっていたので、その間の生活用品は支援物資です。水の量も制限される生活がしばらく続き、身体的、精神的な疲労はとてつもないものでした。
 その体育館である映像を見て私はとても驚きました。それは、たくさんの海外の人が日本人と一緒に一生懸命救助活動をしている姿でした。その時に私は海外に携わる仕事がしたいと強く思ったのです。
そしてこの東日本大震災は津波、大型火災、原発事故、など2 次災害の被害がとても大きく、多くの犠牲者が出ました。私が住んでいる地域が受けた被害はやはり原発事故です。
 発生場所から離れてはいたものの、当初はかなりの量の放射線が測定されたので、もちろ ん外遊びや土に触ることはできないし、庭の植物も捨てることになります。学校では校庭は土ごと入れ替えたり、放射線量を測定するためのバッジの着用を義務付けられました。私の祖父母は農家なので、放射線をかぶった農作物はすべて処分し、土からもう一度やり 直さなくてはいけない状態になったそうです。 以前に比べ、とても不便で窮屈な生活を送ることになりましたが、私は自分が不幸だとは思 いません。大事な人、大事なものを私は何一つ失ってはいないからです。
 震災から8 年が過ぎ、復興はだいぶ進みました。しかし、まだ避難生活を送っている人はたくさんいます。未だに自分の家、故郷に帰れない人がいるのです。それは、人それぞれ理 由があると思います。まだ放射線量が規定以上あって家に近づくことすらできない、もしかしたら、思い出したくないから帰らなくていいという人もいるかもしれません。
しかし、その場所にはその人の思い出が詰まっています。帰りたいと思っていようがいまいが、そこには誰かの生活があり、日常がありました。私は、それがすごくつらく感じます。
 津波の被害を受けた一部の地域は、未だにがらんとしていて何もありません。その場だけ、時が止まったように当時のままです。そこに毎年3月11日になると、家族を津波で亡くした人たちがお花をお供えにやってきます。 震災を経験して、私は多くのものが失われていく様子を目の当たりにしました。家は流され、家畜は死んでいき、たくさんの人が自由を奪われました。
 しかし、それと同時に学んだこともあります。私はニュースで見た海外の人達を忘れることができません。私がテレビで見た海外の人たちはハリウッドスターでもなければ、大統領でもありません。それでも、 私たち日本のピンチに駆けつけてくれたことが嬉しくて、かっこよくて、私もあんな風になりたいと思いました。
 これが、私が海外に興味を持ったきっかけです。私がこの経験から学んだことは、勇気を持っていればこんな私でも誰かを助けることが出来るかもしれないということです! 私はたくさん海外に行って、この目で世界を見てみたいです!!  私の夢はたくさんの人を笑顔にできるC.A になることです! これが私なりの彼らへの恩返しの仕方だと思っています!!

戸川華恵
1 :私は、福島県浪江町に住んでいた戸川華恵です。高校1年生の15歳です。私は今ダンス部に入っています。毎日、同じ部活の同級生たちと一緒に頑張っています。
2 :東日本大震災が起きたことを覚えていますか? 東日本大震災は、2011年3月11日金曜日におきました。
 私の家は強く揺れました。そして、見たことない姿に変わっていました。私は何をしたらよいか分かりませんでした。次の日緊急避難警報が浪江町に響きました。私はなんでこの街を去らなくてはならないのかと思いました。生きてる心地がしませんでした。
 避難している時、大人の弱さを見ました。私達は川俣町の南小学校に避難しました。最悪な状態です。水、電気、食べもの、プライバシー、お風呂が無かったです。私はここから早く出たいと思いました。私達は10間この体育館で過ごしました。
 次の避難場所も悪かったです。多くの人々が避難所に住んでいたので、感染性下痢が流行するようになりまし た。体育館内のほとんどの人が感染し、体育館周辺に嘔吐する人がいました。 多くの人が日々感染し、ついに私たちも感染しました。とても辛かったです。ストレスで暴れ回る人もいました。そんな想像を絶する日々を今も覚えています。
 そこでは1週間過ごし、次の避難場所に移りました。仮設住宅です。新しい避難生活が始まりました。もちろん仮設住宅も最悪でした。夏は暑すぎて、冬は寒すぎました。私は8 年早く過ぎたと思います。
 だけど、いろんなことがありました。私はひどい言葉をたくさん言われました。避難者だ、賠償金をもらってる。放射線を持ち込んでいる。特に酷かったのは、 1番仲がよかった子にロッカーに死ねと書かれたことです。その事で校長室に呼ばれた時、先生はこの子達が死ねと書いたのには特に意味は無いです。それにあなたに謝りました。と言いました。
 これは真実ではありません。先生は何を考えているのですか? 
 川俣町では出てけ! 放射線を持ち込むなと言った人、頑張れ!と言ったり、おにぎりを握ってくれた方がいました。今は素晴らしい友達、素晴らしい先生方がいます。震災を体験した人しか震災のことは知りません。言葉だけでは伝えるのには不十分な時もあります。だから私は震災の体験を多くの人に伝え、今後の対策として伝えていきたいです。正解は1つじゃないです。私はこの経験を例として伝えていきたいです。
3 :みなさんは8 年がすぎた今、福島県はどのように変わったと思いますか。私は変わってないと思います。浪江町に行くことがあるのですが、良い方向に進んでいるとは思いませんでした。
 確かに瓦礫は無くなりましたが、特に以前は活気があった商店街や小学校の周 りは活気がありませんでした。地震の前は2万1000人住んでいた住民も今は1000人ほどしか浪江町に戻れないでいます。津波があった地域は工事現場と草しかありません。
 元の浪江町に戻した方が良いか、または新しい浪江町を作っていくのかという議論がありますが、私は元の浪江町に戻した方が良いと思います。その為にも私は行動していきたいと思います。
4 :私は将来、英語の教師になりたいと思います。英語が好きなのは勿論、英語で世界の人に福島県のこと、震災のことを伝えて行けたら良いと思います。その為にも、今の英語力では伝えることはできません。だから、自分の英語力をもっともっと伸ばす必要があります。ドイツの2週間を通して自分の意見の伝え方、発音など学びたいです。そして、将来の英語 教師という夢に1歩近づけられるよう頑張りたいです。

戸田美悠
 こんにちは。戸田美悠です。福島県の高校に通っている、16 歳です。私は山岳部に所属していて、副部長を務めています。
 私が震災を体験したのは、9歳の時でした。その頃、私は福島県の北西に位置する喜多方市に住んでいたため、そこで体験しました。地震が起きた時、私は父と弟と家にいました。揺れ始まった時、台所の棚にしまってあった皿が音を立てて揺れていたのが、当時9歳だった私と幼い弟にとってはとても怖く、弟と一緒に机の下に隠れたのを覚えています。
 しばらくして、母が無事に家に帰ってきたことに安心しました。しかし、父が電力会社に勤めていたため、父は会社から呼び出しがあり、すぐに原子力発電所に行ってしまいました。呼び出しが来た時、母は「こんな時に行かないで」と言って父を止めました。しかし、父は「仕事だから仕方ない」と言って行ってしまいました。
 その日の夜、父もいなく、母と弟と3人で同じ部屋でテレビのニュース番組を見ながら寝ました。あまりよく眠れなく、落ち着きませんでした。
 さらに、地震の起きた翌日に原子力発電所で爆発が起きたと知って、父が無事に帰ってくるか不安でした。まさか父が行った原子力発電所で爆発が起きるとは、全く思いませんでした。
 それから一週間、父と連絡を取ることができなくなってしまい、母と弟と不安な日々を過ごしました。 それから私が住んでいた地域では、原子力発電所の爆発による放射線の影響で、外であまり遊ぶことができなくなってしまったり、大好きだった体育の授業が減ったり、運動会が午前中のみになったりしたのも悲しかったです。そして、同じく放射線の心配で、福島で育てた農作物が食べられなくなってしまいました。放射線による甲状腺がんについての特集をテレビで見たので、原子力発電所に行った父の健康も心配でした。
 震災から8年が過ぎた今は、放射線もだいぶ減り、放射線を気にせずに外で遊ぶことができるようになり、農作物もほとんどが食べられるようになりました。福島の農作物が食べられるようになったことが、とても嬉しいです。父も無事に帰ってきて、特に病気にかかることもなかったので、本当に良かったです。 父が帰ってきたとき、母は「死んだかと思った」と言っていました。
 このようなことを経験して、発電所がいかに身近なものか、原子力の強さは計り知れないということが改めて身をもってわかりました。原子力発電は、たくさんの電気を生み出すことができても、今回の地震などによる爆発が起きた時の被害はとても大きなものなので、これから福島だけでなく日本全体に再生可能エネルギーが広がっていってほしいと思います。
 そして、私の夢は、看護師になってたくさんの人を助けることです。東日本大震災の時も、多くの人がけがを負ったり、病気にかかったりして、これからいつ、どんな災害が起きるかわからないので、災害が起きた時にすぐにどこでもいろんな人を助けられるような看護師になりたいです。

蛭田里桜
 皆さんこんにちは!  私は蛭田里桜です。りおって呼んでください。私は16 歳です。実は今悩んでることがあるの。
 それはね、私将来パイロットにもなるか国際協力の仕事をするか迷ってるの。その理由はね、8年前に起きた東日本大震災にあるの。
 私が震災に遭ったのは8年前、ちょうど小学一年生だった。学校にいた時、突然地震が起きて、靴箱が横に私の真横に倒れてきて死ぬんじゃないかって思った。先生に導かれて、校庭に避難して母の迎えを待った。
 不安の中、やっとの思いで家に帰ったら電気はつかない、水は出ない、さらに季節が冬だったから、夜は凍えるほど寒い状 況だったの。
 私は自分が1番辛い思いをしていると思った。でもね、実際は家族、友達を地震や津波で亡くして辛い思いをしてる人が沢山いることを知って、電気、水が使えなくなったくらいで生きていけないと思ってる自分が嫌になったの。
 それと同時に、今まで何不自由無く暮らしてた生活が当たり前の事ではなく、幸せなことなんだと言うことを深く実感したの。
 震災後は友達が避難しちゃって会えなかったり、放射能の影響で学校に行けなかったり、精神的にもきつかったの。その中で私が最も辛くて、怒りが湧いたのは、震災についてニュースやネットなどの情報が適切ではなかったり、被災地を見に行ってない評論家などが福島について語っていたりしたことなの。
 要するに、メディアリテラシーに対する不信感を感じたの。「福島は放射能が高いから行ってはだめ」とか、「福島の野菜や果物を食べちゃダメ」とか、報道されているのは被災地のほんの1 部の所だけで、安全な所だってあったし、食べ物だってきちんと検査をしているのに…と思った。
 そして、友達は避難した先で「放射能が移るから近寄るな」、「福島に帰れ」など暴言を吐かれ、いじめられ、さらに辛い思いをしたの。
 でもね、嫌なことばかりじゃなかった。
 世界中から支援金や、励ましの言葉が届いたの。日本とあまり仲良くない韓国や中国からも励ましの言葉が届いたの。これを知って私、「言葉が違くても、文化、習慣が違くても、今私たちがどんな辛い思いをしているかは世界中の人に伝わってるんだ」と思ったの。
 だから、今度は私が助けられた分、世界中の困ってる人を助けたいと思うようになったの。地震や災害は私たちの手では完全に無くすことは出来なくても、国際問題や貧困は私たちの手でどうにかすることはできる!! そして、次の世代の子供たちがみんな笑顔で大人になれるようにしたいと思った。だから、パイロットか国際協力の仕事につくか迷ってるの。
 ありがとうございました。

松本愛由
 みなさん、こんにちは私は松本愛由です。 郡山女子大学付属高校に通って10 年生です。 私は16 歳です。私はバレーボールをしたり,映画を見たりするのが好きです。特に”ハイスクールミュージカル”が好きです。それはハリウッドのミュージカル映画です。私はいつも”ハイスクールミュージカル”の歌を歌います。このミュージカルで一番好きな曲は”始まりの予感”です。
 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生しました。当時私は7歳で、1年生でした。私は、二度と同じ災害が起こらないように願います。
 それは、恐ろしい地震でした。 最初はそれが普通の揺れだと感じていたので、すぐに終わると思いました。しかし、この地震はとても強くて、長いこと何もかもが揺らいでいて、こんなことは今までなかった!と思いました。
 私の家族はみんなパニックに陥り、母は私たちに叫びました。”テレビとキャビネットに持って行き、ストーブのガス炎を消して!”  私はまだ、大きくて長い揺れ、家族の悲鳴、そして地震警報器が鳴り響くのを覚えています。私は机の下に身を隠して、それが止まることを祈ることしかできませんでした。
 母と2人の兄弟は、キャビネットと冷蔵庫をしっかりと持ち、倒れないようにしました。キャビネットや冷蔵庫が転げ落ちたら、母や兄弟はどうなるのか本当に心配でした。
 なぜすぐに止まらなかったのかと、私は自分に問いかけました。そしてその時、私の父は大丈夫だったか?”  母は何度も叫びました。 “まあ、震えるのはやめてください、お願い……!”  私はとても長いと実感し、またこのような大地震が起こるのではないかととても心配しました。
 テレビを見たとき、大きな地滑りが起こり、大きな津波が海岸の町を襲ったのを見ました。全てのシーンは信じられないほどで、本当にショックでした! 幸い、私の町は津波や土砂崩れにはそれほど大きな影響を受けていませんでした。
 しかし東日本大震災は、私たちの日常生活を一瞬のうちに破壊しました。外へ出ると、隣人や友人が無傷で安心しました。震災後、被災者やけが人が日増しに増えていると聞いてとても悲しくなりました。
 また、3月12日に福島第一原子力発電所が爆発し、大量の放射性物質が放出されたと報告されました。当時私は幼かったので、その災害がどれほど深刻だったかは知りませんでした。
 2年後、富岡町から避難した少女と友達になりました。彼女の町は原子力発電所の事故によって大きな被害を受け、事故直後に富岡町を出発せざるを得ませんでした。原子力発電所の事故が住民たちを町から追い出したと聞いて、私はショックを受けました。
 5年生のとき、学校で災害のことを学びました。地震と津波で町が完全に破壊された写真を見ました。友達の一人がそれを見て泣いたので、彼女は突然、教室を出て行ってしまいました。先生も彼女に同情し、私もとても残念に思いました。私たちは長い間地震と津波で苦しんでいたことが悲しくなりました。
 そんな状況にもかかわらず、私は素晴らしい新しい友達を作ることができました。 彼女は私を笑顔で幸せにした。彼女は今では私の親友です。
 私は3月11日に起きたことを決して忘れない。地震が起こると必ずまた起こるのではないかと心配です。福島の食べ物は今では安心して食べられるようで、町はゆっくり回復しつつありますが、福島はかつてないと思います。
 私は将来助産師になりたいです。私は助産師を尊敬しています。なぜなら、お母さんたちを精神的に、そしていろいろな面で支えているからです。ですから、多くの母親や子どもたちを助けたいと思います。
 目標を達成するために、毎日最善を尽くしたいです。私は恥ずかしがり屋で、人前で話すのが苦手です。私はこのEarth Walkerプロジェクトを通して、もっと前向きになりたいです。そして、このような悲劇的な事故が福島で二度と起こらないことを願っています。この素晴らしい体験を通じて多くのことを学び、成長し、本当に上達したいと思っています。
 どうもありがとうございました。

吉田崚真
 こんにちは。僕は吉田崚真です。福島県郡山市に住んでいます。高校では生物部と軽音同好会に所属しています。生物部では、自然界から日本酒に使われる自然の酵母菌を発見する研究をしており、軽音同好会ではエレキギターを弾いています。また、サッカーの試合を見るのも好きです。15歳です。
 僕は自身の経験を通して、自分の夢を決めました。僕は放射線技師になり、福島に貢献したいです。なぜ僕がそう思ったか分かりますか?
 最初に僕の震災体験について話します。
 僕は7歳の時に震災を経験しました。震災が起きたとき、僕は祖父母の家に行くため、父の車にいました。急に僕たちの車が揺れ、だんだん揺れが激しくなりました。シートベルトにロックがかかりました。窓からは、建物が踊るように揺れていました。 揺れている間、僕は命の危機を感じました。僕が感じた感情は恐怖とは違い、もっと本能的なものでした。
 僕たちは祖父母の家に向かいました。祖父母の近所の家は2 階部分が崩れ落ち、ほとんどの家の屋根が剥がれていました。そして自宅に戻ると、断水していました。テレビでは、津波の映像が流れていました。家や車が茶色い水に遠くへ押し流されていました。僕は信じられず、映画を見ているような気持ちになりました。
 次の日、僕たちはいくつかの公園に行き、水や食べ物を手に入れました。そんな中、福島第一原発で原発事故が起きました。原子炉の一つが水素爆発を起こしました。放射性物質が広い範囲に飛び散りました。当時、少数の人しか放射性物質に関する知識がなかったため、僕たちは何が起きたか分かりませんでした。
 しかし、他の2 つの原子炉も爆発しました。僕たちは親戚の家に避難することを決めました。長野県と福島県の距離は約300キロです。僕の学校は新学期が始まる日を遅らせたため、僕たちの避難生活は約1ヶ月間続きました。避難先の親戚は僕たちにとても親切にしてくれましたが、僕は早く自分の家に帰りたかったです。
 学校が再開したため、僕たちは福島に帰りました。しかし、僕の生活はとても退屈に、とても暑く、とてもたくさんのマスクと一緒になりました。
 僕は幼かったです。しかし外で遊べませんでした。学校では、僕たちは窓を開けられませんでした。だから、僕たちは扇風機1つで夏の暑さに耐えなくてはなりませんでした。また、学校で一人ひと箱マスクを渡され、僕たちはそれを付けなくてはなりませんでした。
 福島への風評被害も悲しかったです。福島県のナンバープレートを付けた車が他県で嫌がせを受けていたと聞きました。僕は「みんな福島を嫌っているのか?」と思いました。旅行に出かけたとき、「どこから来たの?」と聞 かれても「福島です。」と答えるのはためらわれました。放射性物質は感染しませんが、そんなことも知らない人たちが僕たちを差別しました。僕はとても悔しいかったです。
 しかし、僕たちは多くの国々からたくさんの支援を頂きました。フランスからは、福島第一原発にエンジニアが来ました。そして、僕たちはたくさんの物資やお手紙を頂きました。今日、僕たちはそれらの支援のおかげで幸せな生活を送れています。また、僕は放射線から逃れるため、長期休暇中にいくつかの保養プログラムに参加しました。僕は沖縄や長崎、長野を訪れました。今考えると、僕はたくさんの福島を支援してくれる人たちのおかげでそのような経験ができたのだと思います。
 そして、福島の現状について話します。風評被害は、日本では良くなりました。僕は福島の食べ物は販売される前に検査されているので、他の土地のものより安全だと思います。しかし、僕は「これが福島です。」と言うことはできません。なぜなら、放射線のレベルも違い、被害のレベルも違うため、皆が違う意見を持っているからです。これはとても過敏な問題です。僕はこれについて話すことを避けています。僕の友達もそうだと思います。また海外での風評被害も解決しなくてはなりません。汚染された土をどこに保管するかという問題もあります。そして、発電所の近くに住んでいた人たちは未だに家に帰れていません。
 えー。皆さんは僕が最初になんて言ったか覚えてますか? 僕は放射線技師になりたいと言いました。その理由を話そうと思います。
 僕たちは放射線の被害をたくさん経験しました。しかし、それは僕たちが放射線の使い方を間違えたからです。僕は放射線自身は悪くないと思 います。人間が自分勝手すぎたのです。もし僕たちが放射線を節度を持って使えば、放射線は誰かの命を救うことができます。僕は放射線を憎みません。その代わりに、僕は放射線を使ってたくさんの病気を治したいです。だから僕は放射線技師になりたいです。
 僕は絶対に夢を叶えたいです。
 ご静聴ありがとうございました。

フクシマ事故